ショーシャンクの食卓に#10 – ちゃんとした料理

子供達がみんな独り立ちして、「ちゃんとしたものを食べさせてこれたかな」と振り返り、今更ながらちょっと頑張ってみようかな。そんなふうに考えて、お味噌作りの会にご参加くださった方がいる。その言葉を聴いて、いくつか考えたことがある。

まず、これは母親(女性)特有の思いなんだろうか。食は男女問わず生きて行くのに不可欠なものであるけれど、料理を「ちゃんとする」ことに心を砕いている父親(男性)は、どれだけいるだろうかと考えると、甚だ心許ない。おふくろの味をやたらと美化したり、ああでもないこうでもないと講釈をたれる男性ほど、実は味に鈍感だったり台所の実情を知らないことも少なくないようだし、なによりはそれでは真心を欠いているようで、うっかりと頷くのは憚られる。

二つ目に、「ちゃんとしたもの」とは、どんな料理のことを指すのだろうか。栄養バランスが取れていることか、あるいは出来合いでなく手作りであることか、はたまた見栄えのするものか、手間暇かけたものか。とにかく「ちゃんとした」という枕を添えると、なにか立派なもののように思われ、いま自分が日々拵えているものは、ちゃんとしていないような不安にかられるということもあるのではないだろうか。

もう一つ、料理をちゃんとしたいという気持ちに、手遅れということはないだろうということ。料理は、常に私たちの生活と共にあるのだから。

「ちゃんとしたもの」を「おいしいもの」に置き換えてみる。その方がずっとシンプルで身近に感じられる。おいしさは相対的なものだから、極端なはなしをすれば、ここぞと奮発した腕の良いプロの料理のおいしさがあれば、氷上でワカサギ釣りに勤しみながら食べるカップラーメンのおいしさもある。ワカサギ釣りといえば、昔一緒に行った友人が、何を思ったかインスタント焼きそばを持参してて、「あー!しまったー!」という顔をしながらお湯を切っていたのが思い出される。あっという間に、冷やし焼きそばの出来上がり。話が逸れた。で、家庭料理におけるおいしさというのは、各自の食生活の芯になるものだと思う。芯であるから、あまり脆弱なのは困る。ゴテゴテと余計な負荷がかかりすぎるのも、ガチガチと凝り固まってゆとりが無いのも具合がよろしくない。できるだけ強く、身軽に、しなやかでありたい。

起承転結考えてないから、散漫な印象かもしれない。長くなりそうなので、また項をあらたにして考えていこうと思う。

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